記事執筆/監修:新井一(起業18フォーラム代表)
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退職給付制度がある企業は、厚生労働省の令和5年就労条件総合調査で74.9%と報告されています。まとまった金額が動く前提で老後の設計を考えている方が多い一方、退職金の一部を「起業準備の元手」に回すつもりなら、受け取り前に決めておきたい順序があります。
退職金を最初から設備投資や大きな仕入れに回すと、生活防衛の残高と事業経費の境目が消えます。順序を間違えると、老後の可処分と事業の運転資金の両方が細っていく事態が起こりやすくなります。先に「取り崩さない額」と「事業に回してもよい額」の線を引くところから始めましょう。
- 退職給付制度がある企業割合:74.9%(令和5年就労条件総合調査・厚生労働省)
- 開業費用の中央値:600万円(日本政策金融公庫・2025年度新規開業実態調査)
- 退職金の分け方の順序:生活防衛と老後準備を先に切り分け、残りを起業原資に回す
退職金の額そのものより、どこまでを生活防衛に残し、どこからを事業原資に振り向けるかの設計が、その後の生活の余裕度を左右します。税務の仕組みも押さえながら順に見ていきましょう。
退職金を「生活防衛」と「起業原資」に分けて置く順序

退職金の使い道で迷ったとき、まず頭に置きたいのは「金額の内訳」よりも「置き場所」です。事業原資と生活防衛を同じ口座に入れると、心理的に「まだ余裕がある」と錯覚しやすくなります。
退職金は事業原資にすぐ回さず、生活防衛の残高として守るべき額を先に決めます。老後の月々の生活費・住居費・医療の予備を差し引いた残額のなかで、事業に動かしていい枠を決める順序に切り替えます。
金融庁の市場ワーキング・グループが2019年に公表した「高齢社会における資産形成・管理」の報告書では、高齢無職世帯の平均モデルで老後30年に約2,000万円の資産取り崩しが必要という試算が示されました。あくまで平均モデルですが、退職金を軽々しく事業に回すことへの慎重さを促す根拠にはなります。
退職所得控除の輪郭を先に押さえる
退職金は「退職所得」として、給与や事業所得より税制上優遇されています。国税庁の解説によれば、勤続20年超の退職所得控除は「800万円+70万円×(勤続年数-20年)」の式で計算し、控除を超えた部分を2分の1にした額に所得税・住民税がかかります。
勤続30年で退職金2,000万円を受け取る場合、退職所得控除は1,500万円になります。差額の500万円を2分の1にした250万円が課税対象で、税負担後の手取りの目減りは限定的です。控除を最大限に活かした受取設計を、開業のタイミングと切り分けて先に整えます。
一次情報が示す開業費用の「許容ライン」

日本政策金融公庫総合研究所の「2025年度新規開業実態調査」(2025年12月5日公表)では、開業費用の平均が975万円、中央値が600万円と報告されています。
開業費用の中央値は600万円で、平均の975万円より低い水準に落ち着いています。平均を押し上げているのは飲食や設備依存の大型開業で、実態としては4割強が500万円未満の枠に収まっています(250万円未満20.1%+250万〜500万円未満21.7%)。
ここから読み取れるのは、退職金を「開業費用の全額」に充てる必要はないという事実です。中央値を目安に、退職金の一部を自己資金として位置づけ、残りは融資や助成金で組み立てる設計にすると、生活防衛用の残高を守れます。
退職給付制度がある企業は74.9%と、5年前の80.5%からおよそ6ポイント低下しました。もらえる前提の額が縮んでいる時代ほど、退職金を守る側に厚く置く判断の重みが増します。
退職金起業でよくある4つの迷いに答える

退職金を受け取る前後に、相談の現場でよく出てくる迷いを4つに整理して、順に応答します。
「まとめて設備投資したほうが有利では」への答え
設備投資を先に打つと、売上が立つ前に固定費が生まれます。中古品や間借り・シェアの活用で初期を圧縮できる領域は多く、日本政策金融公庫の同調査でも開業費用500万円未満が4割強を占める事実は、身軽な入口の合理性を裏づけます。
設備の必要性を疑うのではなく、「売上が立ってから買い足す設備」と「立ち上げに必須の設備」を分ける発想に切り替えます。
「退職金があるうちに大きく張るべきでは」への答え
退職金は再取得できません。大きな勝負に振り向けた瞬間、老後の可処分の下限が下がります。まとまった元手があるほど「試して手応えを確かめてから広げる」順序を守れる立場にいます。
手応えを掴む前に規模を広げないのが、退職金を活かす起業準備の基本姿勢です。
「2,000万円あれば老後は安心では」への答え
金融庁の2019年報告の平均モデルは、年金と生活費の差額から算出された取り崩し試算です。医療・介護・住居のリフォーム等の想定外支出は含みません。事業がうまくいかない時期の生活費補填も踏まえると、「安心の基準」を高めに置く方が現実的です。
2,000万円という数字は「余裕」ではなく「最低ラインの目安」として扱うと、事業に回す枠を控えめに設計できます。
「退職前に動き出すのは早すぎでは」への答え
退職前に始められる準備は、事業の登記や設備投資ではありません。取引先・元同僚・元顧客との関係の棚卸しや、有料で頼まれる仕事の試作は、退職前でも十分に動かせます。
むしろ、退職後に「知り合いゼロ」の状態で新規開拓に走るのが、退職金を溶かす最短ルートです。関係資産の整理は退職前に手を付けておくのが順当です。
「新規/既存/離反」で分けて考える入口設計

拙著『1億円稼いでいる人は何をしているのか?』には、独立初期に既存関係を掘り起こす順序の大切さが紹介されています。マーケティングの整理では、お客さんを「新規」「既存」「離反」の3種類に分けて考える見立てがあり、退職金起業でつまずく方の多くは、この順番を逆から始めています。
新規のお客さんを最初に取りに行こうとすると、広告・SNS・営業ツールに退職金がまとまって出ていきます。既存のお客さん(過去に取引・接点のあった人)を最初に掘り起こす順番に切り替えると、獲得コストは大きく下がります。
- 既存のお客さん:過去に取引・接点があり、あなたの仕事ぶりを知っている人。ここが第一の掘り起こし対象
- 離反したお客さん:一度取引や関係があったが、途切れている人。近況を伝えて再接点を作る第二層
- 新規のお客さん:まだ接点のない人。獲得コストが高く、最後に回す第三層
朝倉さん(仮名・52歳)のケース
大手製造業に30年勤め、退職金2,000万円の受取が見えてきた朝倉さんは、退職前の1年から前職の取引先名刺の整理を自力で始めていました。名刺と業務日誌を照らし合わせ、過去に感謝された案件・出張時のメモを月ごとに並べ直す作業です。
本人は「単なる思い出整理のつもり」で始めたと話していました。ところが、起業18フォーラムの勉強会で既存関係を掘り起こす順序の大切さに触れ、既存関係の掘り起こしが最優先だと知ってから、名刺整理の意味合いが変わったといいます。
実践報告会で他会員の受注経路を照らし合わせ、既存関係から入った方の立ち上がり事例を確認し、朝倉さんは初回相談1万円の枠で技術顧問メニューを試作しました。前職の取引先2社から初回相談の依頼が入ったのが、退職3ヶ月前のことでした。
継続契約数で見るV字の輪郭
退職直後の朝倉さんは、初回相談の単価を1万円から2.5万円に引き上げたうえで、継続契約の月額顧問メニューを1社月額4万円で設計し直しました。既存関係から広がった相談が、月契約の顧問に切り替わり始めたのがおおよそ半年後です。
朝倉さんは16ヶ月目に月契約5社・月20万円の固定売上に届きました。月額4万円×5社という積み上げの過程で、退職金の取り崩しに手をつけずに済んだ点が、本人の言葉で最も安心につながったと話していました。
朝倉さんの16ヶ月は、退職金を守ったまま既存関係を掘り起こしていった結果です。退職金を最初から広告や設備に投じていれば、この形にはたどり着けなかったはずです。
よくある質問

Q.退職所得控除の計算式はどうなっていますか?
国税庁の解説によれば、勤続20年超の退職所得控除は「800万円+70万円×(勤続年数-20年)」で計算します。勤続30年なら1,500万円、勤続35年なら1,850万円が控除額です。退職金からこの控除を差し引いた額を2分の1にした金額に、所得税・住民税がかかります。
Q.退職金は分割受取と一括受取のどちらが有利ですか?
税制上は一括受取の方が退職所得控除を最大限に活かせる形になりやすい設計です。ただし、企業年金として月々分割で受け取ると、公的年金等控除の対象に切り替わり、老後の可処分が平準化される効用もあります。開業のタイミングと生活防衛の必要額から逆算して、就業先の担当部門と相談したうえで選ぶのが安全です。
Q.退職金を受け取る前と受け取った後、どちらで開業する方が有利ですか?
退職所得控除の計算は「退職金を受け取った年」で完結するため、開業のタイミング自体が控除額に影響するわけではありません。ただし、退職所得は分離課税で扱われる部分があり、事業の赤字とどう扱えるかは個別事情で変わります。受取年と開業年を意図的に動かすなら、税理士と個別に確認するのが望ましい領域です。
Q.退職金の一部を融資の頭金に回す設計は有効ですか?
日本政策金融公庫の創業融資では、自己資金の額と創業計画書の妥当性が審査の中心に置かれます。退職金の一部を自己資金として位置づけ、残りを融資で組み立てる設計は、退職金を全額投じる形より運転資金の余白を残せます。事前相談で自己資金の扱いを確認しておくと、想定違いを防げます。
今日できる一歩を決める

退職金の設計は、額の見込みが立つ前と立ったあとで判断の重みが変わります。定年や退職金の受取が見えてきた段階で、動かせるお金の輪郭を先に紙の上に置いてみると、事業に振り向けていい枠と守るべき枠の境目がはっきりします。
退職金の受取見込額と、月に取り崩せる可能額を1度だけ計算します。取り崩さずに残せる額と守りたい生活費の輪郭が見えると、起業準備で動かしていい金額の範囲が具体的になります。就業先の退職金規程・企業年金の説明資料・ねんきん定期便を並べれば、電卓ひとつで線が引けます。
朝倉さんが16ヶ月で月20万円の固定売上に届いた出発点も、名刺ファイルと家計簿を並べて枠を確認する作業でした。順序を先に決めた方ほど、あとで慌てず動けます。

私が見てきた限り、独立してうまくいく人に共通するのは、才能や資金の多さよりも、辞める前に一度でも「有料で頼まれる経験」を作れたかどうかでした。
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